田沼意次の栄光と落日を象徴する「相良城」
蔦重をめぐる人物とキーワード⑰
■わずか8年で姿を消した幻の城
田沼意次の所領となった相良は、現在の静岡県牧之原市周辺に位置する。この地には、平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて、相良氏によって築かれた城があったが、相良氏がのちに九州へ移封されたことにより城は荒廃した。
その後、戦国時代を経て、駿河(するが)と遠江(とおとうみ)の国境に位置するこの地は、戦略的な要衝として注目されるようになる。1576(天正4)年、甲斐(現在の山梨県)の武田勝頼(たけだかつより)は遠江(現在の静岡県西部)侵攻の拠点として周辺の地を利用し、相良城を築城したとされる。
やがて徳川家康が遠江を支配するようになると、相良には「相良御殿」と呼ばれる施設が整備され、鷹狩りの拠点として用いられた。
1710(宝永7)年、相良藩が創設され、本多氏が初代藩主となる。当時、城はすでに存在せず、陣屋が設けられるのみであった。
この地が本格的に発展する契機となったのは、田沼意次が相良藩主となって以降のことである。田沼は9代将軍・徳川家重(いえしげ)の小姓として登用され、次代の10代将軍・徳川家治の厚い信任を受けて異例の昇進を遂げた。やがて老中として幕政を主導し、幕府財政の再建に尽力することとなる。
出世に伴い、田沼はたびたび加増され、1758(宝暦8)年には遠江相良において1万石を領するようになった。さらに1767(明和4)年には2万石に加増され、翌年、幕府より相良での築城が正式に許可された。
田沼による相良城は、1780(安永9)年に完成を迎えた。駿河湾を望む戦略的な高台に位置し、城の構造は本丸、二の丸、三の丸を備えた典型的な城郭形式を採用。海側は自然の断崖が要害となり、陸側には堀や土塁を備えて防御が固められていた。城の規模は東西約500メートル、南北約450メートル、総面積は約7万坪に及ぶとされる。有力な大名のみに許される『天守』が備わっていたとする説もあり、田沼に対する信頼の厚さがうかがえる。
城の完成と同年、田沼は初めて相良の領地に入部し、城下町の整備にも着手。このとき整備された町割は、現在の市街地にもその名残をとどめている。
しかし、完成からわずか8年後の1788(天明8)年、相良城は松平定信の命により破却される運命をたどる。その背景には、1786(天明6)年の田沼の老中罷免があった。天明の大飢饉、嫡男・意知(おきとも)の暗殺、そして政敵である定信(さだのぶ)の台頭といった政治的動揺の中で、田沼は失脚に追い込まれたのである。
破却の際、城の建材の一部は地元の人々の手により守られ、般若寺・大澤寺・大慶寺といった領内の寺院に奉納されている。田沼が一般に「賄賂政治家」として批判される一方で、このような逸話は領民に慕われていた側面を物語るものでもある。
田沼の政治は、当時としては革新的であり、とりわけ商業振興を重視した政策は近年再評価されつつある。領内では殖産興業に力を注ぎ、港湾整備や街道の整備に尽力した。
とくに相良と藤枝を結ぶ街道は、田沼の利用を契機として流通が活性化した功績から、のちに「田沼街道」と呼ばれるようになった。この名称は、1842(天保13)年の古絵図にも記されており、田沼を偲ぶ地元の人々によって自然に定着したものと考えられている。
完成からわずか8年で姿を消した相良城は、田沼意次の栄光と落日を象徴する場となった。現在も城跡には石垣や堀の一部が残されており、往時の姿に思いを馳せることができる。
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